正成の信念:前編
「太平記」の中で好きな人物を一人だけ選べと言われたら、迷うことなく楠木正成を挙げる。
小学校低学年の頃、学研のマンガ日本の歴史シリーズで正成の活躍を読んだこともある。
再び火がついたのは、吉川英治の『私本太平記』を原作にしたNHK大河ドラマ「太平記」のダイジェスト版を鑑賞してからだ。
あの中で武田鉄矢演じる正成像に、深く感銘を受けた。
私事で恐縮だが、「尊氏謀叛ー江戸版太平記ー」という小説を書く動機となったのは、武田版正成を観たのがきっかけだった。
ドラマ版「太平記」における、武田鉄矢の正成の泥臭さ、男らしさ、儚さを小説で再現あるいは凌駕したいと目論んで手掛けたのだ。
私事はこれくらいにして。
楠木正成という人は、戦前は唯一無二の忠臣、戦後は悪党出身の賤しい身分の人間と、時代が移り変わるにつれて評価も逆転した。
司馬遼太郎に至っては、顔のない歴史上の人物と評したがこれはひどい。本人が健在だったなら、是非とも訂正してもらいたかった。
とはいえ、正成の評価が移り変わったのも戦前の皇国史観の柱になっていたことも、酷評の原因ではあろう。
ただはっきりしているのは、戦前・戦後の歴史教育における紋切り型の評価では推し量れないほど、正成本人はスケールの大きい人物だった。
彼が徹底した現実主義者であったことは、足利方の正史「梅松論」にも記されている。
一度は京を奪還しようとして九州へと敗走した足利尊氏と和睦してくれと、後醍醐天皇に涙を流してまで懇願したこと。
おまけに和睦の条件として、同僚の新田義貞を討つべきと進言までしているのだ。
正成がいかに、尊氏の底力を見抜き対立することが朝廷のために益にならないと知り尽くしていたからこそであろう。
しかし尊氏はもはや死に体と見くびった公家共に冷笑されて、この献策は歯牙にもかけられなかった。
九州で勢いを盛り返した尊氏軍が北上してきた時もそうだった。
どう迎え撃つかという問いに対して、京を一旦がら空きにし足利勢が上洛したところを挟み撃ちにすればいいと絶好の献策をした。
しかし朝廷の権威ばかり気にする公家の反対でこれも容れられなかった。
代わりに後醍醐天皇は、新田義貞と共に兵庫へ向かい尊氏軍を迎え撃てと言った。
死刑判決に等しい。私が他の公家や、正成の献策を蹴らせた坊門清忠よりも後醍醐天皇を好きになれないのはこの点にある。
「太平記」は後醍醐天皇を英邁と持ち上げているが、暗君もいいところだと言いたい。
事実同じ悪党出身の赤松円心などは、恩賞の面で不満を持ち後醍醐天皇を見限っている。それが普通である。
だが、正成はそうはしなかった。これを単純な忠誠心の表れと解釈すると、その後の正成の行動そのものを見誤ることとなる。
ある意味、正成は自らの死をもって諫言しようとしたように思える。
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武蔵坊弁慶の真実:後編
「義経記」が、合戦における義経の活躍を割愛したのもむしろ弁慶の活躍を際立たせたいためではと疑いたくなるほどだ。
まず頼朝方の刺客土佐坊と称する僧兵が、弁慶に捕らえられることで事態が緊迫していることを読者に知らしめる。
義経は怒り狂い、自分に官位を授けてくれた後白河法皇に兄・頼朝の追討を願い出る。
しかし政治的な判断力では頼朝のほうが一枚も二枚も上手である。逆に法皇を脅しすかして、義経追討令を発令させた。義経のほうが、逆賊とされてしまったのである。
失意の義経主従は、かつての庇護者・藤原秀衡の助けを求めて奥州・平泉を目指す。
その間弁慶は、義経の子を身籠って身重になった静御前を吉野の山中で別れさせたり、山伏姿で関所を通り抜けようとした。
特に安宅の関でのやり取りは、歌舞伎の「勧進帳」という大一番になっているほど人口に膾炙している。
ここでの弁慶は大活躍といえば聞こえはいいが、やっていることは体のいい主君いじめにも見えなくもない。
特に安宅の関では、主君の正体がバレそうになり義経だと思わせぬよう、公衆の面前で散々に打ち据えている。
歌舞伎では関守の富樫某が、主君を想う弁慶の心情を憐れんで騙されたふりをするという設定になっている。
しかし考えようによっては、牛若丸時代に打ち据えられた恨みを晴らしたのではないかと、少年時代ある物の本で読んで、そうかもしれないと妙に納得した記憶がある。
そういった意味でも、安宅の関での弁慶の行動は忠義と恨みの皮一枚のギリギリの攻防といえなくもない。
ただ先述のように、牛若丸時代の義経と対戦したとされる五条大橋自体当時はなかったが。
なににしても。室町初期に完成したとされる「義経記」に、名も知れぬ幾人もの作者が訴えたかったのは一にも二にも武蔵坊弁慶の忠義心それに尽きたであろう。
その意味で、クライマックスとも言うべき衣川の戦いでは弁慶は満身創痍、全身に矢が突き刺さったまま立ち往生する。
武蔵坊弁慶の真骨頂ここに極まれり、である。
作家の司馬遼太郎は、どこかで「太平記」と違い「義経記」は東北の老婆の涙を振り絞らせるのがやっとで普遍的な古典とはなり得ない。という意味のことを書いていた。
そんなことはない、と思う。たしかに古典としての「義経記」は普遍的とはなり得なかったかもしれない。
しかしその精神は、江戸時代に「船弁慶」、「義経千本桜」、「勧進帳」といった歌舞伎の演目として現代にまで伝えられている。
「義経記」の精神は死なず、なのだ。
ところで肝心の、武蔵坊弁慶は実在したのかという問いにまだ答えていない。
史実としては、義経主従が京から脱出する際比叡山の僧兵が手助けをして捕縛されたという記録がある。
彼らの逸話が、後に「義経記」において武蔵坊弁慶の創作の元になったという説がある。案外核心を突いているのではないか。
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武蔵坊弁慶の真実:前編
京の五条大橋にて、夜も更けた頃千本目の刀を巡って牛若丸と争って敗れる。巷間に伝えられる、源義経・武蔵坊弁慶の初対面のエピソードである。
ところが当時五条大橋は存在せず、室町時代に完成したとされる「義経記」の創作の可能性が高くなった。
なんだか気持ち良く酔っていたところへ、ちりとてちんのようないかがわしい物を食べさせられたような気分になる。
では、弁慶と義経は一体どこで出会ったのか。そもそも武蔵坊弁慶自体実在したのか。結論を出す前に、弁慶に関するエピソードを一つ一つ検証してみよう。
まずは出自について。熊野別当が、京から拐ってきたとある姫に産ませたのが弁慶の誕生とされる。
ただしその生まれ方が既に尋常でない。約三年もの間母親の胎内にいて、生まれた時には髪も歯も生え揃っていて三歳児並の体格をしていたという。
後に剛力無双で名を馳せる弁慶の人並みはずれたさまを、出生から脚色したのだろうがさすがにサービス精神もここまできたら興醒めである。
とはいえ、仮にこんな子供が誕生したら熊野別当でなくても捨てよと気味悪がるだろう。
母親の取り成しで比叡山に預けられることになったが、そうでなければ京とは無縁となっていたかもしれない。
むしろこの点に着目しないと、出生からしていかがわしい弁慶の存在に注目がいかないだろう。
無理があるという設定をあえて伝えたのも、武蔵坊弁慶が後に源義経となる牛若丸と出会う必然性を作る上での創作ということになる。
今も昔も、物語を紡ぐ人々は脳味噌を振り絞って考え抜くことに変わりはない。
弁慶の存在自体をファンタジーとして捉えるならば、読み手はいかにうまく騙されるか工夫をしなければいけない。
歴史にファンタジーなど必要なのかという異論もあろう。ぶっちゃけて言えば、本来必要ない。
ただし「古事記」にしても、現在の視点から見ておかしいと思われた記述も後世の検証で史実を伝えていたというものもある。
「義経記」における弁慶の記述が嘘・大袈裟・紛らわしいと思っても、創作の中にも一種の真実が含まれていると大目に見て騙されながら読んだほうがよかろう。
話を進める。武蔵坊弁慶の存在自体に疑問符がつく証拠に、一ノ谷・屋島・壇ノ浦と主君義経が活躍した合戦で弁慶がまったく存在感を示していないことである。
逆に那須与一という郎党ではない源氏方のエピソードが語られるくらいで、義経方は人がいないのかと突っ込みたくなるほどおとなしい。というか沈黙している。
これを弁慶以下郎党を無能と見るか、むしろ主君義経のスタンドプレーが強調されるあまり、家来の存在が置き去りにされたと見るべきか。
私は後者のほうを取りたい。義経主従というが、実際にはお話にならないほどその数は少なかった。
家来が少ない分、義経が奮闘せざるを得なかったのが「義経記」作者の見解であろう。
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道灌と早雲:後編
太田道灌には、その生涯を示唆しているかのようなエピソードがある。
まだ少年時代、自らの学識を誇り鼻っ柱の強かった道灌の将来を心配した父親が次のように忠告した。
「驕れる者は久しからず」
「平家物語」のあまりに有名な一節を説いたのだ。すると道灌少年すかさず、
「驕らぬ者もまた久しからず」
と反論した。まあ、なんと生意気な子供かと印象を持ってしまう。
もっともこのエピソード自体、道灌が没して百年以上の江戸時代の書物に編纂されたものだから、鵜呑みにするのは危険だが。
とはいえ、後世の江戸時代においては道灌という人物は武術に優れ歌道にも通じていた武将として認知されていた。
彼が歌道に励む元となった山吹の里の伝説も、いかに江戸の庶民が道灌に親しんでいた一つの証左であろう。
話を戻せば。道灌が気位の高い人物であったことは確かだった。
そのような人間が、二十四歳も年下の伊勢新九郎と会談して彼の意見を取り入れるとは思えない。
なにより新九郎こと後の北条早雲が、道灌と同世代であったという従来説からこの会談の伝説は成り立っていた。
早雲がいくら後に梟雄と称されるようになったとはいえ、四十五歳の働き盛りと二十一歳の若輩者では早雲のほうが気後れしよう。
実際のところ、当時の道灌というのは室町幕府の一能吏にしか過ぎない新九郎など歯牙にかけないほど、その威勢は京にまで知れ渡っていた。
常識から考えても、新九郎が道灌と接触したと考えるのは無理がある。伝説は伝説として留めておいたほうがよかろう。
ただし、今川家の文書が道灌と新九郎との間に密約が成立したと主張するのは、それなりの切実さがあろう。
ご存知のように、小鹿範満が今川家の家督代行を務めると決まったことで、事実上今川家の家督争いは終息したかに見えた。
しかし早雲の姉で未亡人の北川殿が、まだ諦めていなかった。幕府に度々直訴して、竜王丸成人の暁には家督を継がせるという念書まで貰った。
ただし、当時の室町幕府の権威は失墜している。いくら幕府の確約を得ているといっても、小鹿範満が拒絶すればそれまでだ。
なにより母子共々亡き者にすれば解決することである。そこで北川殿が助けを求めたのが、京にいる新九郎である。
相変わらず幕府の官僚として仕えていた新九郎だが、姉の嘆願に住み慣れた京から新天地駿河に自分の居場所を賭けることにした。
小鹿範満を討ち取ったことで、甥の竜王丸は元服し氏親と名乗って今川家を継ぐことができた。
道灌が生きていれば、なんらかの軍事行動を起こしていたかもしれない。しかし彼は、主君に疎まれこの世の人ではなかった。
一説に、太田道灌の謀殺に北条早雲が一枚噛んでいたと称された所以である。
しかし道灌の謀殺には扇谷上杉家の主格だった山内上杉家が関与しているのははっきりしている。
早雲はとんだ濡れ衣である。
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道灌と早雲:前編
かつて信じられた、一つの伝説がある。駿河守護であった今川義忠が、遠江国に遠征に向かった際討ち死にするという悲劇に見舞われた。
駿河国は上へ下への大騒ぎとなった。順番から行けば、嫡男の竜王丸が家督を継ぐはずだった。
だが竜王丸はまだ幼く、義忠の従兄弟にあたる小鹿(おしか)範満を推す一派も現れた。実にわかりやすい御家騒動となった。
今川家の災難は、この御家騒動に他国の有力者が介入したことだ。
伊豆からは堀越公方足利政知が、武蔵国からは扇谷上杉家の家宰太田道灌が軍勢を駿河に派遣した。
それぞれが駿河に政治的影響力を与えたい。二つの軍勢が睨み合う中、狐ヶ崎に対陣していた道灌の元に一人の男が訪ねてきたという。
男は竜王丸の伯父にあたり(この点に注目していただきたい)、竜王丸の母北川殿に懇願され住み慣れた京都を引き払って、七人の家来と共に駿河へ下向したという。
当然、竜王丸を引き立ててくれと直訴に来たのだと警戒した道灌。ところが新九郎は開口一番、
「竜王丸殿は残念ながら、まだ幼少であります。そこで竜王丸が元服するまで、小鹿範満殿に後見人として駿河を治めてもらってはいかがでしょう?」
意外な提案に道灌は、ほう、と、新九郎を見直した。考えてみれば、それが両者にとって妥当な案だと彼にも思えた。
二人はその後話し合っているうちに、偶然永享四(一四三二)年の子年生まれと判明した。
同世代か。そのことで道灌は更に打ち解けた。自分の目の黒いうちは、竜王丸殿をなおざりにしない。
道灌はそう確約し、自らの居城江戸城のある武蔵国へと兵を引き上げていった。
一方この会談で男を上げた新九郎は、今川家から褒賞として伊豆との国境にある興国寺城を貰い受け、一城の主となった。
やがて新九郎から剃髪し早雲と名乗ると、竜王丸に今川家を継がせるべく奔走する。ここから早雲の、戦国の始まりとなる国盗りが始まっていく。
以上が従来から流布されてきた、太田道灌と北条早雲に関する伝説的な逸話である。
だが、察しの早い読者諸賢はもうお気づきであろう。道灌と新九郎早雲の会見は起こり得なかったということを。
詳しくは前回の「北条早雲は何歳で亡くなったのか?:後編」を参照していただきたいが、そもそも道灌と早雲が同世代という前提が近年否定されたからだ。
たしかに早雲も子年生まれだが、その開きが二十四歳もある。当時道灌は四十五歳、新九郎はまだ二十一歳の若輩者。
二人が会談して、道灌が年若の新九郎の提案を呑んだとはちょっと考えにくい。
むしろ道灌の独断で、小鹿範満に家督代行を継がせたと考えることが素直だ。
主家である扇谷上杉家の政治的影響力を考えれば、あわよくばそのまま今川家を掌握させたいと目論んでいたかもしれない。
つづく
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北条早雲は何歳で亡くなったのか?:後編
ところが近年になって、この従来説が揺らいできた。ある意味、完全に否定されたといっても過言ではない。
まずは生年について。従来は江戸時代後期に流布された、1432年説すなわち永享四年説だが、これは早雲ではなく彼の外叔父にあたる伊勢貞藤ではないかと大塚勲氏が指摘しているとのこと。
もちろん早雲も同年生まれという見方ができなくもないが、いささか苦しいのは事実だ。
これについては、『シリーズ・中世関東武士の研究第一〇巻 伊勢宗瑞』/戎光祥出版を編著した黒田基樹氏が注目すべき物証を提示している。
伊勢宗瑞といわれると誰じゃいと首を傾げる方もいらっしゃるだろう。早雲の生前の通名で、学術的にはこちらのほうが正しい。
だが、本稿では混乱を避けるため早雲で通す。さて、黒田氏の実証の結果に触れる。
彼によると、武蔵国新座郡宮戸村法蔵寺(現在の埼玉県朝霞市)の開基高橋家に伝来する過去帳に、早雲だけでなく北条氏五代に関する記載があるという。
早雲に触れている部分だけ抜粋する。
伊勢早雲庵宗瑞天岳
早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門
禅正院法政維徳信士
永正拾六年己卯八月拾五日滅 六拾四歳
伊勢備中守盛定子 備中入道正鎮 高越山城主 仕足利義政申次衆
新九郎盛時 或長氏 仕足利義視申次衆 仕今川治部大輔氏親駿河守護代"
やや煩雑のきらいもあるので解説すると、早雲は永正十六年すなわち1519年に六十四歳で亡くなったという記述である。
従来説を頑なに信じていた人たち(私もその一人)にとっては、脳天を殴られるほどの衝撃の史実といえる。
蛇足ながら、ここから導き出される早雲の生年は康正二年すなわち1456年となる。つまり従来説とは、24年も開きがあることになる。
それでも納得がいかないという人もあろう。実は過去帳自体、後世の偽作と疑うむきもあるのではないか。
話が早雲一人に限れば、そう思いたい人もあろう。私もその一人だった。
この高橋家伝来の過去帳というのは、古くなったのを書き写したものだ。その過程で、改竄されたのではと疑ったのだ。
しかし過去帳は一人早雲のみでなく、北条氏五代の没年及び正室の没年も記載されている。
詳しくは『〜伊勢宗瑞』の「総論 伊勢宗瑞論」を読んでみてほしいが、改竄のしようがない早雲の子孫の享年まで事細かく記されているのだ。
早雲ただ一人、その享年が改竄されたと考えるのは無理がある。
ちなみにこの編著書が刊行されたのは2013年であり、以降早雲の生年については従来説とこの新説がwikipediaで併記されていた。
ちなみに本稿を書くにあたり、もう一度ググってみたら1456年説で統一されていた。ここ7年の間で、新説が定説になったと見て間違いなかろう。
なお、はてなブログでは生没年・享年記載なしという、慎重な扱いをしている。
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北条早雲は何歳で亡くなったのか?:前編
北条早雲といえば、戦国時代を語るうえで欠かせない人物の一人だ。なにしろ彼の軍事行動から、戦国時代は事実上始まったのだから。
ところで気になるのは、この人物いくつくらいで亡くなったのかということだ。これまでの定説では、1432年に生まれて1519年に没したということになっている。
数え年で88歳だから、当時としては驚くべき長寿であったことがわかる。早雲を主人公にした司馬遼太郎の長編『箱根の坂』全3巻は、定説を根拠にしている。
この作品における早雲が戦国武将として活躍するのは、実に下巻の辺りになってくるから凄まじい。
そこに至るまでいかに早雲が、甥で主君である今川氏親に仕えながら大乱世となる新時代を築くまでの準備期間が丹念に描かれている。
ちなみに、早雲が戦国の先駆けとなった伊豆奪取が1491年か93年頃。早雲当時60か62歳の頃の話なので、これだけでも彼のスロースターターぶりがわかる。
普通ならとうに隠居しているか、今でいう終活に入ろうかという年齢である。早雲の凄みはこの先にある。
小説では東からの脅威を除くためとされているが、正に『箱根の坂』を登りきって奇襲でもって小田原城を奪取する。
伊豆平定に関しては、伊豆の主であった堀越公方足利政知が嫡男・茶々丸に殺された非道を正すという大義名分があった。
が、小田原城を治めている大森氏にはなんの非があるわけでもない。
あるいは将来両上杉氏が、氏親幼少の頃の家督争いのように軍事介入してくることも考えられる。その前に先手を打つということだ。
しかしそれは、事実上の戦国の世を切り開くことになる。司馬遼太郎は作中で、その覚悟をするまで逡巡する早雲の姿を描いて人間臭い。
結局三嶋大社で願掛けをさせることで、早雲に一線を越えさせる決意をさせる。
小田原城を奪い取ることに成功した早雲だが、それは更に東で力をつけてきている三浦道寸との対決が必至となることだった。
正攻法では道寸には敵わない。思い定めた彼は、小田原城下が三浦軍に蹂躙されても動くな、と、家臣たちに戒める。
そして何年も同じ状況が続き、三浦軍が早雲を舐めきったところを奇襲をかけ散々に打ち破る。
勢いは一気に早雲に傾き、籠城した道寸らを3年がかりで滅ぼす。
時に早雲85歳。これだけでも恐るべき執念と言わざるを得ない。
これから更に3年生き長らえる早雲は、伊豆・相模を領するようになり、家督を嫡男氏綱に譲ると両上杉氏の打倒を託し、88年の生涯を終える。
これが従来説を下敷きにした、早雲の生涯ということになる。
司馬は後書きにて、早雲の生涯を振り返った時正に箱根の坂を登りきったかのように膝に痛みを覚えるかのようだった。と、述懐している。
従来説を元にした小説としては、見事に描き切っているといえよう。
この稿、つづく
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