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光秀の敗因:後編

答えはノーである。仮にも、天下の命運を決める戦いに挑もうとするのだ。負け戦覚悟のノープランで臨むほど、秀吉は無謀ではない。

そのことは移動中の非常食一つ取っても抜かりはない。先述の播田氏によると、一日の食糧だけでもおにぎり40万個重量にして約40tの計算になるという。

これだけの食糧だけでも揃えるのは容易なことではない。ましてや相手は、常に現実的視点に立つ戦国武将である。

更に稀代の軍師黒田官兵衛孝高がその配下にいたわけだから、水も漏らさぬ態勢ですべては遂行されたであろう。

後年天下人となった秀吉は、

「わしの後に天下を取れるのは官兵衛のみよ」

と言わしめたのは、秀吉の当時の天下への食指にいち早く気づいた警戒心もあろう。

同時に、中国大返しの際の官兵衛の作戦遂行能力の見事さを実際に目の当たりにした実感も伴ってのことではないか。

いずれにしろ、軍勢を丸々上洛寸前まで移動させるだけではまだ足りなかった。

何故なら、2万の軍勢がそっくりそのまま使い物になるとは限らぬからだ。

どういうことかというと、軍勢の大半が雨の中での野宿を強いられたであろう状況を考えると、秀吉軍そのものが即戦力とはなり得ないからだ。

恐らく移動だけで精魂を使い果たしていただろう。そんな事では繰り返すが、当時精強を誇った光秀軍に勝てるわけがない。では、どうするか。

ここで死に体寸前だった織田信孝と、去就を決めかねていた高山右近らの存在が注目される。

黒田官兵衛の進言もあると思う。秀吉は備中高松城を出発する直前までに信孝や右近といったいわば光秀に与しないのではと思われる勢力に書簡を送っていたのだろう。

すなわち自分が毛利氏と調停を結んで上洛する際には、味方をしてくれるようにと頼み込んだと思われる。

事実山崎の地まで軍勢を引き返させた秀吉は、信孝を旗頭に立てていわば連合軍をもって光秀軍に当たらせた。

一方光秀のほうは、秀吉が変の後に僅か11日で軍勢を喉元まで引き寄せてきたことに驚愕したであろう。

同時に一つの目算も立てた。いくらなんでも早過ぎる。無理な進軍は、秀吉軍に多大な犠牲を払わせたであろう、と。

今の疲労困憊しきった秀吉軍であれば、返り討ちも可能であろうと目算を立てたと思われる。

実際のところ、光秀はまだ移動中だった秀吉軍の機先を制しようと京を出発した。そして山崎の地で両軍は激突した。

結果は読者の皆さんのご存知の通りである。そう、織田信孝播磨灘近郊の武将たちを味方につけた時点で勝負はついていた。

秀吉は追討軍の大将を信孝にしたことで、この戦を秀吉と光秀による天下分け目の合戦という私的なものではなく、信孝の父・信長の弔い合戦へと巧妙にすり替えた。

信孝という気難しいが、主君の息子を手中に収めることで秀吉はまんまと官軍となり得たのである。

光秀は信孝という存在を放っておかず、殺すか捕らえるかしておくべきであった。正にそれが彼の最大の敗因といえた。

次回、光秀死すとも編(9月掲載予定)に続く。

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