日本史語らずにいられない!

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武蔵坊弁慶の真実:前編

京の五条大橋にて、夜も更けた頃千本目の刀を巡って牛若丸と争って敗れる。巷間に伝えられる、源義経武蔵坊弁慶の初対面のエピソードである。

ところが当時五条大橋は存在せず、室町時代に完成したとされる「義経記」の創作の可能性が高くなった。

なんだか気持ち良く酔っていたところへ、ちりとてちんのようないかがわしい物を食べさせられたような気分になる。

では、弁慶と義経は一体どこで出会ったのか。そもそも武蔵坊弁慶自体実在したのか。結論を出す前に、弁慶に関するエピソードを一つ一つ検証してみよう。

まずは出自について。熊野別当が、京から拐ってきたとある姫に産ませたのが弁慶の誕生とされる。

ただしその生まれ方が既に尋常でない。約三年もの間母親の胎内にいて、生まれた時には髪も歯も生え揃っていて三歳児並の体格をしていたという。

後に剛力無双で名を馳せる弁慶の人並みはずれたさまを、出生から脚色したのだろうがさすがにサービス精神もここまできたら興醒めである。

とはいえ、仮にこんな子供が誕生したら熊野別当でなくても捨てよと気味悪がるだろう。

母親の取り成しで比叡山に預けられることになったが、そうでなければ京とは無縁となっていたかもしれない。

むしろこの点に着目しないと、出生からしていかがわしい弁慶の存在に注目がいかないだろう。

無理があるという設定をあえて伝えたのも、武蔵坊弁慶が後に源義経となる牛若丸と出会う必然性を作る上での創作ということになる。

今も昔も、物語を紡ぐ人々は脳味噌を振り絞って考え抜くことに変わりはない。

弁慶の存在自体をファンタジーとして捉えるならば、読み手はいかにうまく騙されるか工夫をしなければいけない。

歴史にファンタジーなど必要なのかという異論もあろう。ぶっちゃけて言えば、本来必要ない。

ただし「古事記」にしても、現在の視点から見ておかしいと思われた記述も後世の検証で史実を伝えていたというものもある。

義経記」における弁慶の記述が嘘・大袈裟・紛らわしいと思っても、創作の中にも一種の真実が含まれていると大目に見て騙されながら読んだほうがよかろう。

話を進める。武蔵坊弁慶の存在自体に疑問符がつく証拠に、一ノ谷・屋島・壇ノ浦と主君義経が活躍した合戦で弁慶がまったく存在感を示していないことである。

逆に那須与一という郎党ではない源氏方のエピソードが語られるくらいで、義経方は人がいないのかと突っ込みたくなるほどおとなしい。というか沈黙している。

これを弁慶以下郎党を無能と見るか、むしろ主君義経のスタンドプレーが強調されるあまり、家来の存在が置き去りにされたと見るべきか。

私は後者のほうを取りたい。義経主従というが、実際にはお話にならないほどその数は少なかった。

家来が少ない分、義経が奮闘せざるを得なかったのが「義経記」作者の見解であろう。

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に配信予定です。


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