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北条早雲は何歳で亡くなったのか?:前編

北条早雲といえば、戦国時代を語るうえで欠かせない人物の一人だ。なにしろ彼の軍事行動から、戦国時代は事実上始まったのだから。

ところで気になるのは、この人物いくつくらいで亡くなったのかということだ。これまでの定説では、1432年に生まれて1519年に没したということになっている。

数え年で88歳だから、当時としては驚くべき長寿であったことがわかる。早雲を主人公にした司馬遼太郎の長編『箱根の坂』全3巻は、定説を根拠にしている。

この作品における早雲が戦国武将として活躍するのは、実に下巻の辺りになってくるから凄まじい。

そこに至るまでいかに早雲が、甥で主君である今川氏親に仕えながら大乱世となる新時代を築くまでの準備期間が丹念に描かれている。

ちなみに、早雲が戦国の先駆けとなった伊豆奪取が1491年か93年頃。早雲当時60か62歳の頃の話なので、これだけでも彼のスロースターターぶりがわかる。

普通ならとうに隠居しているか、今でいう終活に入ろうかという年齢である。早雲の凄みはこの先にある。

小説では東からの脅威を除くためとされているが、正に『箱根の坂』を登りきって奇襲でもって小田原城を奪取する。

伊豆平定に関しては、伊豆の主であった堀越公方足利政知が嫡男・茶々丸に殺された非道を正すという大義名分があった。

が、小田原城を治めている大森氏にはなんの非があるわけでもない。

あるいは将来両上杉氏が、氏親幼少の頃の家督争いのように軍事介入してくることも考えられる。その前に先手を打つということだ。

しかしそれは、事実上の戦国の世を切り開くことになる。司馬遼太郎は作中で、その覚悟をするまで逡巡する早雲の姿を描いて人間臭い。

結局三嶋大社で願掛けをさせることで、早雲に一線を越えさせる決意をさせる。

小田原城を奪い取ることに成功した早雲だが、それは更に東で力をつけてきている三浦道寸との対決が必至となることだった。

正攻法では道寸には敵わない。思い定めた彼は、小田原城下が三浦軍に蹂躙されても動くな、と、家臣たちに戒める。

そして何年も同じ状況が続き、三浦軍が早雲を舐めきったところを奇襲をかけ散々に打ち破る。

勢いは一気に早雲に傾き、籠城した道寸らを3年がかりで滅ぼす。

時に早雲85歳。これだけでも恐るべき執念と言わざるを得ない。

これから更に3年生き長らえる早雲は、伊豆・相模を領するようになり、家督を嫡男氏綱に譲ると両上杉氏の打倒を託し、88年の生涯を終える。

これが従来説を下敷きにした、早雲の生涯ということになる。

司馬は後書きにて、早雲の生涯を振り返った時正に箱根の坂を登りきったかのように膝に痛みを覚えるかのようだった。と、述懐している。

従来説を元にした小説としては、見事に描き切っているといえよう。

この稿、つづく

 

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