日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

光秀の敗因:後編

答えはノーである。仮にも、天下の命運を決める戦いに挑もうとするのだ。負け戦覚悟のノープランで臨むほど、秀吉は無謀ではない。 そのことは移動中の非常食一つ取っても抜かりはない。先述の播田氏によると、一日の食糧だけでもおにぎり40万個重量にして約…

光秀の敗因:前編

明智光秀は謀叛に成功した。誤算はあれど彼が主君織田信長の弑逆を遂行し得たのは、光秀自身の慎重さにもあっただろう。 仮に彼がこの謀叛劇を他の誰かと結託して行ったとすれば、そこから計画が洩れていた可能性は高い。 その点で私は、本能寺の変光秀単独…

光秀の誤算:後編

話を整理する。明智光秀が畿内を制圧して、天下を取ろうとしたことは傍証はできる。 たとえば数年がかりで攻略した丹波、ここはまず都を押さえる意味で地理的に近い。 信長自身はそのつもりでこの国を光秀の領地にしたのではなかろうが、ここに居を構えてい…

光秀の誤算:前編

生憎NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は熱心に観ていなかった。明智光秀の最期を想像するだけで、陰々滅々とした気持ちになると思ったからである。 たとえば司馬遼太郎。彼は『国取り物語・織田信長編』で光秀を信長にいじめ抜かせることで、主君への反感を殺意…

「我以外皆我師」

吉川英治。我が国初のこの国民文学作家のことを覚えている人がどれだけいるだろう。 彼は戦前・戦中・戦後を通じて、私たち日本人を励まし続けてきた偉大な時代・歴史作家であった。 その点では、NHK朝ドラ「エール」のモデルとなった作曲家古関裕而とジャン…

金ヶ崎退き口

残念ながら、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は途中で観なくなってしまった。以下は、その前提の上でお話したい。 織田信長はその生涯において、何度も命の危険にさらされた。 義弟浅井長政に裏切られ、越前の金ヶ崎で追い詰められた一件である。 しかし、よく…

正成の信念:後編

「梅松論」に次の意味のようなことが書いてある。 "すべての策が退けられた今となっては、もはや討ち死にを覚悟するしかあるまい。" 新田義貞と共に、兵庫へ向かって足利尊氏を迎え撃てと言われた際の、楠木正成の心情だとされる。 これを読む限りでは、はっ…

正成の信念:前編

「太平記」の中で好きな人物を一人だけ選べと言われたら、迷うことなく楠木正成を挙げる。 小学校低学年の頃、学研のマンガ日本の歴史シリーズで正成の活躍を読んだこともある。 再び火がついたのは、吉川英治の『私本太平記』を原作にしたNHK大河ドラマ「太…

武蔵坊弁慶の真実:後編

武蔵坊弁慶の活躍はむしろ、主君源義経の落魄後に訪れる。 「義経記」が、合戦における義経の活躍を割愛したのもむしろ弁慶の活躍を際立たせたいためではと疑いたくなるほどだ。 まず頼朝方の刺客土佐坊と称する僧兵が、弁慶に捕らえられることで事態が緊迫…

武蔵坊弁慶の真実:前編

京の五条大橋にて、夜も更けた頃千本目の刀を巡って牛若丸と争って敗れる。巷間に伝えられる、源義経・武蔵坊弁慶の初対面のエピソードである。 ところが当時五条大橋は存在せず、室町時代に完成したとされる「義経記」の創作の可能性が高くなった。 なんだ…

道灌と早雲:後編

太田道灌には、その生涯を示唆しているかのようなエピソードがある。 まだ少年時代、自らの学識を誇り鼻っ柱の強かった道灌の将来を心配した父親が次のように忠告した。 「驕れる者は久しからず」 「平家物語」のあまりに有名な一節を説いたのだ。すると道灌…

道灌と早雲:前編

かつて信じられた、一つの伝説がある。駿河守護であった今川義忠が、遠江国に遠征に向かった際討ち死にするという悲劇に見舞われた。 駿河国は上へ下への大騒ぎとなった。順番から行けば、嫡男の竜王丸が家督を継ぐはずだった。 だが竜王丸はまだ幼く、義忠…

北条早雲は何歳で亡くなったのか?:後編

ところが近年になって、この従来説が揺らいできた。ある意味、完全に否定されたといっても過言ではない。 まずは生年について。従来は江戸時代後期に流布された、1432年説すなわち永享四年説だが、これは早雲ではなく彼の外叔父にあたる伊勢貞藤ではないかと…

北条早雲は何歳で亡くなったのか?:前編

北条早雲といえば、戦国時代を語るうえで欠かせない人物の一人だ。なにしろ彼の軍事行動から、戦国時代は事実上始まったのだから。 ところで気になるのは、この人物いくつくらいで亡くなったのかということだ。これまでの定説では、1432年に生まれて1519年に…

秀吉の泣き所

豊臣秀吉といえば、下剋上が当たり前の戦国時代においても人臣位を極めた人物だ。 後北条氏五代の礎を築いた北条早雲ですら、室町幕府の家臣という立場からのし上がった。 秀吉に至っては、幕府の家臣どころか陪臣ですらなく、尾張の百姓の子として生まれた…

義経の悲劇

またもや「ライズ・オブ・キングダム」ネタで申し訳ない。 現在、私の城のメイン指揮官は楠木正成から源義経に変わっている。 「これも我が宿命か……」 「藤原秀衡の恩は、来世でなければ返せまい」 元気な正成に比べると、義経の決め台詞はどこか陰がある。…

蝮の末裔

蝮(まむし)の異名を取っていただけに、斎藤道三の評判というのは悪かった。 何しろ、微罪であっても牛裂き、釜茹での刑に処したというのだから庶民は震え上がっただろう。かつ、この守護代を憎まずにはいられない。 つい、四、五十年くらいまでは美濃の国盗…

「七生報国」に非ず

私は最近、「ライズ・オブ・キングダム」というスマホゲームをやっている。それぞれの国の古代文明を、同盟を結んで発展させていくというものだ。 世界史に暗い私は、やはり日本人だからというやや後ろ向きな理由から日本文明を選んだ。 野蛮人と戦闘を行う…

勝者はどっちか

永禄4(1561)年、第四次川中島の合戦が遂に行われる。俗に八幡原の戦いとも称するこの合戦で、武田軍・上杉軍共に甚大な犠牲者を出す。 一ヶ月近い対陣の末に激突するわけだが、当時上杉政虎と名乗っていた謙信は我慢強く動かなかった。 本来なら長年の仇敵で…

対決迫る

さて、川中島の合戦である。 5回行われたこの戦、第四次を除けば戦いらしい戦いをしてないので合戦ではなく、川中島の戦いとウィキペディアでは記載している。 私自身、恥ずかしながら戦いと合戦の明確な区別がついてない。まあ、私事はいい。 いずれにしろ…

宿命の二人

武田信玄と上杉謙信といえば、戦国時代における永遠のライバルである。 彼らは信州北部の川中島において、5回にもわたって戦い続けた。その間、実に12年余り、どちらも根気強いというかしつこい。 実際に戦らしい戦となったのは、永禄4(1561)年に行われた第…

信長が受け継いだもの

織田信長の凄みをどう言い表したらよいだろう。天才の一言で片付けてしまえば、あまりに食い足りないしこの戦国の風雲児に対して失礼だ。 戦場で度々見せた俊敏な決断力、これも信長の卓越した資質の一つといえる。たとえば金ヶ崎の撤退など、彼の決断が吉と…

楠木正成という存在

江戸時代、太平記読みという職業があった。初期の頃は、従来の説教僧や食い詰め浪人が道端で僅かな銭を得るために行っていたという。 後に太閤記が流行ると駆逐されるように激減したらしい。それでも元禄年間に人気があった時には、職業として専門化したよう…

司馬遼太郎の肩書き

先日、ここのはてなブログで司馬遼太郎がどのような肩書きで位置付けされているのか興味が湧いてググってみた。 すると簡略に小説家、エッセイストとなっていて、なるほどと納得した。司馬さんを語るうえで、これ以上でもなくこれ以下でもない過分のない見方…

その最期

書き忘れていたが江帾は盛岡藩に帰参した際、那珂通高と改名している。亡兄の息子も養子にしている。しかし混乱を避けるため、あえて本稿では江帾五郎で通す。 さて、奥羽越列藩同盟である。 奥羽諸藩と越後諸藩で結成されたこの同盟について、詳しく触れた…

それからの江帾五郎

結論から言ってしまえば、江帾は仇討ちもしなかったし死にもしなかった。仇である家老が失脚した後、病死してしまったのである。 とはいえ、失脚してから亡くなるまでの間いくらかのタイムラグはあったはずである。目指す兄の仇を討とうとしなかったのは、江…

軽薄才子

江帾(えばた)五郎。今回司馬遼太郎の、『世に棲む日日』を再読するまでこの志士の名を失念していた。いや、果たして志士といえるのだろうか。 本編によると、南部藩出身のこの人物は肥後熊本藩の宮部鼎蔵(ていぞう)と共に若き頃の吉田松陰に多大な影響を与え…

日本史探訪への誘い

私が日本史に興味を持ったのはいつ頃からだろう。小学一年生の時、父が買い与えてくれた伝記集の中で野口英世やエジソンのエピソードが印象に残った。 その時点では日本史そのものより、日本や世界の偉人について知ることのほうが好きだった。 私と日本史の…