北条早雲は何歳で亡くなったのか?:後編
ところが近年になって、この従来説が揺らいできた。ある意味、完全に否定されたといっても過言ではない。
まずは生年について。従来は江戸時代後期に流布された、1432年説すなわち永享四年説だが、これは早雲ではなく彼の外叔父にあたる伊勢貞藤ではないかと大塚勲氏が指摘しているとのこと。
もちろん早雲も同年生まれという見方ができなくもないが、いささか苦しいのは事実だ。
これについては、『シリーズ・中世関東武士の研究第一〇巻 伊勢宗瑞』/戎光祥出版を編著した黒田基樹氏が注目すべき物証を提示している。
伊勢宗瑞といわれると誰じゃいと首を傾げる方もいらっしゃるだろう。早雲の生前の通名で、学術的にはこちらのほうが正しい。
だが、本稿では混乱を避けるため早雲で通す。さて、黒田氏の実証の結果に触れる。
彼によると、武蔵国新座郡宮戸村法蔵寺(現在の埼玉県朝霞市)の開基高橋家に伝来する過去帳に、早雲だけでなく北条氏五代に関する記載があるという。
早雲に触れている部分だけ抜粋する。
伊勢早雲庵宗瑞天岳
早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門
禅正院法政維徳信士
永正拾六年己卯八月拾五日滅 六拾四歳
伊勢備中守盛定子 備中入道正鎮 高越山城主 仕足利義政申次衆
新九郎盛時 或長氏 仕足利義視申次衆 仕今川治部大輔氏親駿河守護代"
やや煩雑のきらいもあるので解説すると、早雲は永正十六年すなわち1519年に六十四歳で亡くなったという記述である。
従来説を頑なに信じていた人たち(私もその一人)にとっては、脳天を殴られるほどの衝撃の史実といえる。
蛇足ながら、ここから導き出される早雲の生年は康正二年すなわち1456年となる。つまり従来説とは、24年も開きがあることになる。
それでも納得がいかないという人もあろう。実は過去帳自体、後世の偽作と疑うむきもあるのではないか。
話が早雲一人に限れば、そう思いたい人もあろう。私もその一人だった。
この高橋家伝来の過去帳というのは、古くなったのを書き写したものだ。その過程で、改竄されたのではと疑ったのだ。
しかし過去帳は一人早雲のみでなく、北条氏五代の没年及び正室の没年も記載されている。
詳しくは『〜伊勢宗瑞』の「総論 伊勢宗瑞論」を読んでみてほしいが、改竄のしようがない早雲の子孫の享年まで事細かく記されているのだ。
早雲ただ一人、その享年が改竄されたと考えるのは無理がある。
ちなみにこの編著書が刊行されたのは2013年であり、以降早雲の生年については従来説とこの新説がwikipediaで併記されていた。
ちなみに本稿を書くにあたり、もう一度ググってみたら1456年説で統一されていた。ここ7年の間で、新説が定説になったと見て間違いなかろう。
なお、はてなブログでは生没年・享年記載なしという、慎重な扱いをしている。
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