日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

道灌と早雲:前編

かつて信じられた、一つの伝説がある。駿河守護であった今川義忠が、遠江国に遠征に向かった際討ち死にするという悲劇に見舞われた。

駿河国は上へ下への大騒ぎとなった。順番から行けば、嫡男の竜王丸が家督を継ぐはずだった。

だが竜王丸はまだ幼く、義忠の従兄弟にあたる小鹿(おしか)範満を推す一派も現れた。実にわかりやすい御家騒動となった。

今川家の災難は、この御家騒動に他国の有力者が介入したことだ。

伊豆からは堀越公方足利政知が、武蔵国からは扇谷上杉家の家宰太田道灌が軍勢を駿河に派遣した。

それぞれが駿河に政治的影響力を与えたい。二つの軍勢が睨み合う中、狐ヶ崎に対陣していた道灌の元に一人の男が訪ねてきたという。

男の名は伊勢新九郎長氏、後の北条早雲である。

男は竜王丸の伯父にあたり(この点に注目していただきたい)、竜王丸の母北川殿に懇願され住み慣れた京都を引き払って、七人の家来と共に駿河へ下向したという。

当然、竜王丸を引き立ててくれと直訴に来たのだと警戒した道灌。ところが新九郎は開口一番、

竜王丸殿は残念ながら、まだ幼少であります。そこで竜王丸が元服するまで、小鹿範満殿に後見人として駿河を治めてもらってはいかがでしょう?」

意外な提案に道灌は、ほう、と、新九郎を見直した。考えてみれば、それが両者にとって妥当な案だと彼にも思えた。

二人はその後話し合っているうちに、偶然永享四(一四三二)年の子年生まれと判明した。

同世代か。そのことで道灌は更に打ち解けた。自分の目の黒いうちは、竜王丸殿をなおざりにしない。

道灌はそう確約し、自らの居城江戸城のある武蔵国へと兵を引き上げていった。

一方この会談で男を上げた新九郎は、今川家から褒賞として伊豆との国境にある興国寺城を貰い受け、一城の主となった。

やがて新九郎から剃髪し早雲と名乗ると、竜王丸に今川家を継がせるべく奔走する。ここから早雲の、戦国の始まりとなる国盗りが始まっていく。

以上が従来から流布されてきた、太田道灌北条早雲に関する伝説的な逸話である。

だが、察しの早い読者諸賢はもうお気づきであろう。道灌と新九郎早雲の会見は起こり得なかったということを。

詳しくは前回の「北条早雲は何歳で亡くなったのか?:後編」を参照していただきたいが、そもそも道灌と早雲が同世代という前提が近年否定されたからだ。

たしかに早雲も子年生まれだが、その開きが二十四歳もある。当時道灌は四十五歳、新九郎はまだ二十一歳の若輩者。

二人が会談して、道灌が年若の新九郎の提案を呑んだとはちょっと考えにくい。

むしろ道灌の独断で、小鹿範満に家督代行を継がせたと考えることが素直だ。

主家である扇谷上杉家の政治的影響力を考えれば、あわよくばそのまま今川家を掌握させたいと目論んでいたかもしれない。

つづく

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