道灌と早雲:後編
太田道灌には、その生涯を示唆しているかのようなエピソードがある。
まだ少年時代、自らの学識を誇り鼻っ柱の強かった道灌の将来を心配した父親が次のように忠告した。
「驕れる者は久しからず」
「平家物語」のあまりに有名な一節を説いたのだ。すると道灌少年すかさず、
「驕らぬ者もまた久しからず」
と反論した。まあ、なんと生意気な子供かと印象を持ってしまう。
もっともこのエピソード自体、道灌が没して百年以上の江戸時代の書物に編纂されたものだから、鵜呑みにするのは危険だが。
とはいえ、後世の江戸時代においては道灌という人物は武術に優れ歌道にも通じていた武将として認知されていた。
彼が歌道に励む元となった山吹の里の伝説も、いかに江戸の庶民が道灌に親しんでいた一つの証左であろう。
話を戻せば。道灌が気位の高い人物であったことは確かだった。
そのような人間が、二十四歳も年下の伊勢新九郎と会談して彼の意見を取り入れるとは思えない。
なにより新九郎こと後の北条早雲が、道灌と同世代であったという従来説からこの会談の伝説は成り立っていた。
早雲がいくら後に梟雄と称されるようになったとはいえ、四十五歳の働き盛りと二十一歳の若輩者では早雲のほうが気後れしよう。
実際のところ、当時の道灌というのは室町幕府の一能吏にしか過ぎない新九郎など歯牙にかけないほど、その威勢は京にまで知れ渡っていた。
常識から考えても、新九郎が道灌と接触したと考えるのは無理がある。伝説は伝説として留めておいたほうがよかろう。
ただし、今川家の文書が道灌と新九郎との間に密約が成立したと主張するのは、それなりの切実さがあろう。
ご存知のように、小鹿範満が今川家の家督代行を務めると決まったことで、事実上今川家の家督争いは終息したかに見えた。
しかし早雲の姉で未亡人の北川殿が、まだ諦めていなかった。幕府に度々直訴して、竜王丸成人の暁には家督を継がせるという念書まで貰った。
ただし、当時の室町幕府の権威は失墜している。いくら幕府の確約を得ているといっても、小鹿範満が拒絶すればそれまでだ。
なにより母子共々亡き者にすれば解決することである。そこで北川殿が助けを求めたのが、京にいる新九郎である。
相変わらず幕府の官僚として仕えていた新九郎だが、姉の嘆願に住み慣れた京から新天地駿河に自分の居場所を賭けることにした。
小鹿範満を討ち取ったことで、甥の竜王丸は元服し氏親と名乗って今川家を継ぐことができた。
道灌が生きていれば、なんらかの軍事行動を起こしていたかもしれない。しかし彼は、主君に疎まれこの世の人ではなかった。
一説に、太田道灌の謀殺に北条早雲が一枚噛んでいたと称された所以である。
しかし道灌の謀殺には扇谷上杉家の主格だった山内上杉家が関与しているのははっきりしている。
早雲はとんだ濡れ衣である。
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