日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

「我以外皆我師」

吉川英治。我が国初のこの国民文学作家のことを覚えている人がどれだけいるだろう。

彼は戦前・戦中・戦後を通じて、私たち日本人を励まし続けてきた偉大な時代・歴史作家であった。

その点では、NHK朝ドラ「エール」のモデルとなった作曲家古関裕而とジャンルは違えど似通っている。

似ているといえば、古関裕而もそうだったように吉川も独学の人だった。

なにしろ10歳の時に家運が傾いたのがきっかけで、当時の尋常高等小学校を中退せざるを得なかった。

以降、30歳で文学を志すまでさまざまな職を転々としていった。この間、川柳や懸賞小説に応募するなど苦労を重ねていった。

吉川を事実上、国民文学作家へと押し上げたのが『宮本武蔵』である。この作品以降、彼は史実と虚構が絶妙に入り混じった歴史小説をもっぱら得意としていく。

とはいえ実際の宮本武蔵に関しては、当時は史料も極めて少なかったことから吉川版武蔵は作者の創作に依るところがまだ大であった。

いかに彼の『宮本武蔵』の影響が大きかったか。後年この大作をベースに、井上雄彦が漫画『バガボンド』を執筆したことでも明らかだ。

また吉川が創作した武蔵永遠の恋人お通のイメージがあまりにも強過ぎたためもあろう。

同時に吉川が織り成す世界観があまりに巧みだったせいもあると思う。

小山勝清が『それからの武蔵』を執筆したのは、間違いなく吉川英治へのオマージュでありリスペクトがあった。

巌流島の決闘の後、武者修行のため袂を分かってしまう恋人は確かにお通を意識していた。

武蔵の陰にお通あり。この相関関係から、その後さまざまな小説家が呪縛から逃れられなかった。

マルクス史観の歴史家服部之総など一部の例外を除けば、彼自身は専門家から教えを乞うことは少なかった。

そんな吉川が座右の銘にしていたのが、「我以外皆我師」というのだから悪い冗談に聞こえなくもない。

しかし彼としては歴史家に学ぶというより、世間一般に対して真摯に学ぶという意味を込めていたのではないか。

実際、吉川の小説を読んでいると世間知というか大衆の匂いや足音がしてくるほど現実感がある。

恐らく同じような大衆としての皮膚感覚が、常に世の中を観察することで自得していったのだろう。

その直感こそが、独学でも大衆の心を摑む作品を書きたらしめていったといえる。

吉川英治を大作家たらしめたのは、正に学ぶことを止めなかったその一点に尽きる。

宮本武蔵』、『三国志』、『新・平家物語』、『私本太平記』と数多の大作を生み出しながら、70歳でその生涯を終えた点にある種の凄みすら感じさせる。

吉川以降花開いた大衆小説における歴史小説の系譜は、その後やはり国民文学作家となる司馬遼太郎へと引き継がれていく。

彼も同じく独学の人であった。大成する作家には共通点があるのだろうか。

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に配信予定です。

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