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武蔵坊弁慶の真実:後編

武蔵坊弁慶の活躍はむしろ、主君源義経の落魄後に訪れる。

義経記」が、合戦における義経の活躍を割愛したのもむしろ弁慶の活躍を際立たせたいためではと疑いたくなるほどだ。

まず頼朝方の刺客土佐坊と称する僧兵が、弁慶に捕らえられることで事態が緊迫していることを読者に知らしめる。

義経は怒り狂い、自分に官位を授けてくれた後白河法皇に兄・頼朝の追討を願い出る。

しかし政治的な判断力では頼朝のほうが一枚も二枚も上手である。逆に法皇を脅しすかして、義経追討令を発令させた。義経のほうが、逆賊とされてしまったのである。

失意の義経主従は、かつての庇護者・藤原秀衡の助けを求めて奥州・平泉を目指す。

その間弁慶は、義経の子を身籠って身重になった静御前を吉野の山中で別れさせたり、山伏姿で関所を通り抜けようとした。

特に安宅の関でのやり取りは、歌舞伎の「勧進帳」という大一番になっているほど人口に膾炙している。

ここでの弁慶は大活躍といえば聞こえはいいが、やっていることは体のいい主君いじめにも見えなくもない。

特に安宅の関では、主君の正体がバレそうになり義経だと思わせぬよう、公衆の面前で散々に打ち据えている。

歌舞伎では関守の富樫某が、主君を想う弁慶の心情を憐れんで騙されたふりをするという設定になっている。

しかし考えようによっては、牛若丸時代に打ち据えられた恨みを晴らしたのではないかと、少年時代ある物の本で読んで、そうかもしれないと妙に納得した記憶がある。

そういった意味でも、安宅の関での弁慶の行動は忠義と恨みの皮一枚のギリギリの攻防といえなくもない。

ただ先述のように、牛若丸時代の義経と対戦したとされる五条大橋自体当時はなかったが。

なににしても。室町初期に完成したとされる「義経記」に、名も知れぬ幾人もの作者が訴えたかったのは一にも二にも武蔵坊弁慶の忠義心それに尽きたであろう。

その意味で、クライマックスとも言うべき衣川の戦いでは弁慶は満身創痍、全身に矢が突き刺さったまま立ち往生する。

武蔵坊弁慶の真骨頂ここに極まれり、である。

作家の司馬遼太郎は、どこかで「太平記」と違い「義経記」は東北の老婆の涙を振り絞らせるのがやっとで普遍的な古典とはなり得ない。という意味のことを書いていた。

そんなことはない、と思う。たしかに古典としての「義経記」は普遍的とはなり得なかったかもしれない。

しかしその精神は、江戸時代に「船弁慶」、「義経千本桜」、「勧進帳」といった歌舞伎の演目として現代にまで伝えられている。

義経記」の精神は死なず、なのだ。

ところで肝心の、武蔵坊弁慶は実在したのかという問いにまだ答えていない。

史実としては、義経主従が京から脱出する際比叡山の僧兵が手助けをして捕縛されたという記録がある。

彼らの逸話が、後に「義経記」において武蔵坊弁慶の創作の元になったという説がある。案外核心を突いているのではないか。

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に配信予定です。


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