日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

光秀の敗因:前編

明智光秀は謀叛に成功した。誤算はあれど彼が主君織田信長の弑逆を遂行し得たのは、光秀自身の慎重さにもあっただろう。

仮に彼がこの謀叛劇を他の誰かと結託して行ったとすれば、そこから計画が洩れていた可能性は高い。

その点で私は、本能寺の変光秀単独犯説を信じて疑わない。とはいえ以下のことは、その上でも残る疑念だ。

確かに信長弑逆を計画し実行したのは光秀本人だろう。ただしその計画は、間違いなく水も漏らさぬ形で行い得たのか?

誰かが彼の謀叛を期待して、信長に密告しなかった可能性はなかったのかという長年の疑問は氷解してない。

私のこの疑惑が確信めいたものに変わっていったのは、播田安広氏著作の『日本史サイエンスー蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫るー』を読んだからだ。

播田氏は船舶設計の専門家であり、歴史に関しては素人と述懐している。しかし一見素人とされる彼の見解が、常識とされた日本史に一つの見方を提示してくれた。

たとえば中国大返し、これなど羽柴時代の秀吉の命運を分けた一大イベントとされている。

実際のところ、毛利攻めをしていて身動きが取れなかったはずの秀吉がいち早く本能寺の変をキャッチしたことで、天下取りのチャンスを掴んだことになっている。

しかし科学の視点で見た時、秀吉並びにその軍勢には常識では推し量れない点が散見するという。

秀吉が毛利方の支城備中高松城を落とし、京を目指したと推定されるのが6月5日。

本能寺の変がこの月の2日の朝に起きているから、秀吉がいかに早く情報を掴んでいたかということだ。

ご存知の通り通説では、毛利宛の光秀からの密使が道に迷い秀吉の陣営で捕らえられたことが発覚の原因とされている。

それが3日の夜とされ、事実としたら秀吉は恐るべき強運の持ち主ということになる(否定はしないが)。

京を窺う山崎の地に軍勢を集結させ、光秀を打ち破ったのが13日、この間僅か11日しか経っておらずいわゆる光秀の三日天下と言われる由縁がここにある。

この歴史的事実ゆえに、明智光秀は恩のある主君・信長を殺して滅びた愚かな武将の如く印象づけられた。

長年逆臣の汚名を一身に浴びた光秀だが、本当にそれだけの評価ですませていいのか。

『日本史サイエンス』は少なくとも、従来の説に寄りかかった人物像を洗い直している。

実は秀吉の中国大返し自体、きわどい形で成功したかのように宣伝されている節があるというのだ。

当時の秀吉軍の行程を分析すると、雨が何日も降る中軍勢の大半は野宿を強いられたことが窺えるという。

相手は織田家中でも精強をもって知られた明智軍、京かその周辺に早々と着いたとしてもまともに戦えるかむしろ不安要素のほうが大きかった。

何より二万の軍勢を損じることなく決戦に向かわせられるかという問題もあった。

秀吉は半ば負け戦も覚悟で、京を目指したのだろうか。

 

後編に続く。

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