日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

秀吉の泣き所

豊臣秀吉といえば、下剋上が当たり前の
戦国時代においても人臣位を極めた人物だ。

後北条氏五代の礎を築いた北条早雲ですら、室町幕府の家臣という立場からのし上がった。

秀吉に至っては、幕府の家臣どころか陪臣ですらなく、尾張の百姓の子として生まれた。

それが織田信長に仕えるようになってから面白いくらいに出世し、最終的には太閤と呼ばれるまでになった。

ガチガチの縦割り社会を生きている現代の私たちから見れば、羨望の的ですらある。

ただし近年においては、秀吉の評判というのはすこぶる良くない。

たとえば司馬遼太郎などは、秀吉を評して人たらしの天才とした。しかしその人心掌握術も、彼の生涯を鳥瞰的に見ると計算ずくと言えなくもない。

たとえば軍師として重用していた黒田如水(当時は官兵衛)を疎み出したのも、如水の才能を妬み恐れたからだ。

もしも官兵衛が、秀吉の朝鮮出兵という大愚行において小さな過失さえ犯さなければ(過失とさえ言えぬものだが)、もっと大失態を起こすのを待って切腹くらいさせただろう。

結果として、秀吉の代官として出兵を切り盛りしていた石田三成との不和が原因で、如水と号して剃髪し更に隠居を願い出ることで秀吉の先手を打った。

少なくともこのエピソードから窺えるのは、如水のほうが人の心を読む点で卓越していたということだ。

実際天下を取ってからというもの、秀吉の称号ともいうべき人たらしの天才の一面は影を潜めている。

ライバル徳川家康重臣石川数正を引き抜いて家臣にした点も、長い目で見れば失点だった。

長年家康の権力の中枢を担ってきた数正を引き抜くことは、家康の牙を抜くことのようにも見える。

が、逆に家康はこれをプラスに転じて新しい家臣団の育成に努めた。

数正は僅か十万石で飼い殺しとなった。これだけを見ると、引き抜きだけで人材を一から育てようとしてない秀吉の弱点が透けて見える。

むろん、生え抜きの家臣がいないという弱みは彼自身熟知していただろう。

だから加藤清正福島正則など、親類筋にあたる若者を信長に仕えていた頃から積極的に採用した。

問題は加藤清正に代表される尾張派(いわゆる武断派)と、石田三成を筆頭とする近江派(いわゆる文治派)という派閥を作ってしまったことだ。

秀吉個人が生きているうちは抑えが効いていた派閥争いも、彼の死後難なく家康によって豊臣家分裂の足掛かりにされてしまった。

秀吉に先見の明がありさえすれば(晩年は耄碌していて、見込みは薄かったが)、家康に東国の支配を任せ豊臣家は畿内から西を治めるという英断もできただろう。

そう考えると秀吉の人心掌握術というのは、目上や対等の立場の人物には効いた中間管理職のそれであるように思えてしまう。

天下人として長い尺度で周りを見ていく能力には欠けていたのではと、慨嘆せざるを得ない。

 

※このブログは、毎月第2、第4日曜日に配信予定です。

 


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