日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

勝者はどっちか

永禄4(1561)年、第四次川中島の合戦が遂に行われる。俗に八幡原の戦いとも称するこの合戦で、武田軍・上杉軍共に甚大な犠牲者を出す。

一ヶ月近い対陣の末に激突するわけだが、当時上杉政虎と名乗っていた謙信は我慢強く動かなかった。

本来なら長年の仇敵である武田信玄を一挙に屠りたいところだっただろう。

しかし過去3回の対戦から、信玄が簡単に誘いに乗らないことを承知していた。

自分からは動かない。あえての待ちの姿勢が、謙信を耐え抜かせ信玄を疑心暗鬼にさせた。

甲陽軍鑑」によると、軍師の山本勘助がいわゆる"啄木鳥(きつつき)の戦法"というものを進言し、挟み撃ちで上杉軍を殲滅することで決まったという。

山本勘助軍師説というのは明治以後否定され、山本勘助自体も存在しないと抹殺された。

山本勘助が実在したかという話は別の稿に譲るとして、武田軍が最初に動いたのは事実だ。

馬場信房が率いる別動隊で上杉軍を急襲し、退却したところを八幡原で待ち伏せた信玄の本隊が殲滅するという計画であった。

しかし謙信に作戦を見破られ、上杉軍は陣を張っていた妻女山を秘かに抜け出し、信玄本隊が待ち構えている八幡原を目指した。

当日は濃霧だった。午前8時頃、霧が晴れたのをきっかけに上杉軍が武田本隊に攻めかかった。

出し抜かれた信玄にしてみれば悔やみきれない事態で、別動隊が到着するまで防戦一方だった。

それでも午前10時頃、高坂昌信馬場信房の別動隊が駆けつけたことでようやく挟撃態勢を取ることができた。

不利を悟った謙信はすぐに全軍を退却させた。この際、謙信がただ一騎信玄の本営を突き一騎討ちを仕掛けたとされる。

ただこのエピソードも、明治以後は否定されたが。

前述したように両軍の犠牲者は甚大だった。武田軍2万に対し死者は4千人余り、上杉軍1万3千に対し3千人余りといかに激戦であったかがわかる。

特に武田軍は、信玄の弟武田典厩信繁、諸角虎定、そして山本勘助など名だたる人材を討ち死にさせてしまった。

特に弟・信繁の死が、その後の信玄と嫡男・義信との断絶の遠因になったともされる。

一方、上杉軍を退却させたことで信玄は川中島の利権を死守することができた。

そういう意味では、「甲陽軍鑑」の"前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち"というのは、ある程度客観的な判定といえる。

とはいえ、信玄にしても手放しで喜べるかどうか。上杉軍殲滅という目的を果たせなかった彼は、結局川中島から北への侵攻をあきらめざるを得なかった。

北への膨張に限界を見た信玄は、その後嫡男・義信を自殺に追い込み軍事同盟を結んでいた北条氏康と敵対してまで駿河を手に入れるために歳月を費やす。

結果信玄は南にも版図を広げ、天下統一を目論む織田信長をさえ恐怖に陥れる。

しかし、彼の死で武田家が信長に滅ぼされたことを考えると川中島の戦いがウイークポイントになったと思わざるを得ない。

信玄ファンとしては口惜しい限りだが。

 

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