対決迫る
さて、川中島の合戦である。
5回行われたこの戦、第四次を除けば戦いらしい戦いをしてないので合戦ではなく、川中島の戦いとウィキペディアでは記載している。
私自身、恥ずかしながら戦いと合戦の明確な区別がついてない。まあ、私事はいい。
いずれにしろ、川中島など北信を舞台に武田信玄と上杉謙信の睨み合いは続いていく。
特に信玄が正面衝突は避けつつ、軍勢を動かしたのは謙信の実力を計りかねた上で一歩も退かないという決意の表れであろう。
謙信も同様だった。彼にしてみれば、越後一国を治めていられるのは一にもニにもその強烈なカリスマ性にあった。
もしもここで村上義清以下、彼を頼ってきた信濃の豪族たちを見捨てたら謙信与し易しと、武田の侵略の足掛かりをつけかねない。
正に謙信にとっては、北信への軍事介入は防衛戦であった。信玄は信玄で、意外な強敵の出現に舌打ちしたくなっただろう。
何度も睨み合いや牽制が続いた末、永禄4年の合戦へと繋がった。謙信はともかく、何故慎重居士の信玄が決戦に討って出たのか。
前年に軍事同盟を結んでいた駿河(現在の静岡県中部)の今川義元が、桶狭間の合戦にて織田信長に討ち取られた。その心理的な焦燥もあったのかもしれない。
何より足掛け10年近く雌雄を決さなかったのだ。さすがの信玄も痺れを切らしたのだろう。
そして一方の謙信は、長尾景虎名義から上杉姓を拝領し関東管領という重職に就いた。
この一件で謙信は、信濃だけでなく関東の治安維持のためにも奮闘することになる。
ひいては信玄だけでなく、小田原の北条氏康とも対決を迫られる事態となった。
事実、関東管領を拝命すると日和見だった関東の諸大名、諸豪族を結集させ小田原攻めを行なったくらいだ。
この戦いは堅固な小田原城に立て籠もる氏康が、挑発に乗ることなく籠城したので遂に決着は着かなかった。
関東を一挙に治めるという当初の計画こそ崩れたものの、謙信は大いに満足した。
小田原から近い鎌倉にて関東管領の就任を行うことで、関東の事実上の盟主であった氏康のプライドを刺激した。
むろん、それで激するほど氏康は甘くなかったが。いずれにしろこの瞬間から、謙信と小田原の北条氏は永遠の仇敵となっていく。
黙っていなかったのは信玄だった。彼は戦場で敗死した今川義元そして北条氏康と三国軍事同盟を結んでいた。
ここで氏康が万が一にも謙信に屈することになったら、信濃における自分の影響力も危うくなると判断した。
北信に軍事介入をすることで、謙信の視線を関東から牽制させた。事ここに至って、謙信も今度こそ信玄と雌雄を決しようと考えた。
武田信玄と上杉謙信。長い間睨み合いを続けていた両雄が、いよいよ重い腰を上げた。
決戦の地、川中島での対決がすぐそこまで迫っていた。激戦が始まろうとしていた。
※この稿、続く。
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