日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

宿命の二人

武田信玄上杉謙信といえば、戦国時代における永遠のライバルである。

彼らは信州北部の川中島において、5回にもわたって戦い続けた。その間、実に12年余り、どちらも根気強いというかしつこい。

実際に戦らしい戦となったのは、永禄4(1561)年に行われた第四次合戦だが、これが戦国史上稀に見る激戦となった。

川中島の合戦というと、後世ではこちらを指すことが多く口の悪い言い方をすれば、残りの4つはいわば付け足しに過ぎない。

何故両者はこんなに長い間いがみ合ったのか。理由はすこぶる簡単で、信玄は領地拡大のため、謙信は防衛の意味も兼ねていた。

できればこの先は日本地図を見ながら読んでもらいたいくらいである。

信玄の領地である甲斐(現在の山梨県)は、東を北条氏康、南を今川義元という戦国大名によって勢力拡大の道を抑えられていた。

甲斐という国が食べていくためには、2つの方法しかなかった。

まずは内政を充実させること。この点で国内に信玄堤を築かせるなど、間違いなく信玄は内政の名人であった。

とはいえ、いくら彼が内政の名人といえど元手なしに国内を治めるのは不可能である。そのために行われたのが、北の信濃経略だった。

他国と違い、当時の信濃は大小さまざまな豪族が山を隔ててちまちまと勢力争いをしていた。これらを個別撃破していけば領地を増やせる。

何より信濃は手つかずの穀倉地帯として、隣国の甲斐からは魅力充分であった。

信玄が先代・信虎の頃からの宿願であった信濃制圧に動き出したのも、いわば当然の帰結といえる。

豪族たちはこぞって信玄(当時は晴信)に刃向かったが、ことごとく蹴散らされた。真田幸隆のように土地と家を守るため、自ら帰順した者もいた。

中には村上義清のように、幾度となく信玄の猛攻を撃退しながらも敗れ去った者もいた。

いずれにしろ、父・信虎を追放して家督を継いでから10年が経つ頃には、信玄は北信を除いた信濃の大半を支配下に収めた。

黙っていなかったのが、越後(現在の新潟県)の長尾景虎こと後の上杉謙信だった。当時謙信は守護代という立場にあり、厳密には越後の国主でなかった。

しかしさまざまな豪族が反目し合う越後において、戦に強くカリスマ性もある謙信はいつしか盟主として仰がれるようになっていた。

事実上彼は、越後の国主同然に祭り上げられていた。この謙信に、村上義清など信玄に領地を奪われた信濃の各豪族が泣きついてきた。

義侠心に厚い謙信には、断る口実はなかった。もっともそんな綺麗事だけではない。

かの甲斐の虎と呼ばれる人物の膨張政策を静観していたら、いずれ越後にも累が及ぶことは火を見るより明らかだった。

後年、明治の後期に我が国がロシアに宣戦布告して日露戦争を起こしたのとはからずも似ている。

いわば、武田信玄上杉謙信の軍事衝突は避けられない必然であった。

※この稿、続く。

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