日本史語らずにいられない!

日本史について掘り下げていきます。

司馬遼太郎の肩書き

先日、ここのはてなブログ司馬遼太郎がどのような肩書きで位置付けされているのか興味が湧いてググってみた。

すると簡略に小説家、エッセイストとなっていて、なるほどと納得した。司馬さんを語るうえで、これ以上でもなくこれ以下でもない過分のない見方と感心させられた。

司馬さんというと、やれ司馬史観だとか晩年は文明批評家としてこの国の将来を憂いていたとか、歴史家か憂国の士という取り上げ方ばかりされる。

要は彼を神格化してまだ一儲けしたい各出版社の思惑が(特に週刊朝日など)透けて見える。

はっきり言ってしまえば、司馬遼太郎は小説を書かなくなった時点で現役を引退するべきだった。本人も小説で書くべきことはすべて書いたと思っていただろうし。

誰が、彼を惑わしたのか。今となっては特定の人を戦犯にしてみても始まらない。問題は、自分以外この国日本の将来を変えられる人間はいないと彼が思い込んだことだろう。

だからこそ、文明批評家などという身の丈に余る役柄を引き受けたような気がしてならない。

原因は小説家時代の痛恨事にあると思う。ノモンハン事件、というものがあった。

司馬さんが従軍した太平洋戦争に遡ること2年前の昭和14(1939)年に、日本の植民地だった満州国(現在の中国東北部)とモンゴルとの国境争いから生じた軍事衝突だった。

当時モンゴルは社会主義国家で、社会主義国家の総元締めであるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦の略)が満州国周辺を窺っていた関係もあり、共に日本と国境争いとなったのだ。

結果は日本にとって惨憺たるもの(近年の研究では、また別の見解も出ている)だった。日本軍は生き残った将校の大半を自決させることによって隠蔽を図った。

司馬さんにとって、ノモンハン事件の真相を探ることは長年疑問の種であった何故日本は太平洋戦争で敗れたのかを解く糸口になるはずだった。

しかし結局彼は、ノモンハンを小説として手掛けることができなかった。それを司馬遼太郎の、小説家としての限界と断じるのは簡単だ。

むしろ書けない主題があったということに、司馬さんが決して万能の書き手ではなく同じ人間としての弱さを抱えた人だった点に親しみを感じる。

ただ晩年の彼の悲劇は、小説を書かなくなった代わりにさまざまなエッセイを通じて自分の戦中体験などについて触れたことだ。

史実に厳密に触れているのならいいのだが、最近の研究で実は詐称ではないかと疑われるエピソードもあるのだ。

これは彼が、そういう話を織り込めば読者が面白がるだろうという、良く言えばサービス精神悪く言えば実証的でない一面を発揮してしまったからといえる。

その意味で今日、司馬遼太郎の肩書きを小説家、エッセイストという枠組みで見るのは極めて適切であると思う。

間違っても全てを見通していた文明批評家として捉えてはいけない。

※このブログは、毎週日曜日配信予定です。

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