楠木正成という存在
江戸時代、太平記読みという職業があった。初期の頃は、従来の説教僧や食い詰め浪人が道端で僅かな銭を得るために行っていたという。
後に太閤記が流行ると駆逐されるように激減したらしい。それでも元禄年間に人気があった時には、職業として専門化したようだ。
話がだれてお客が集まらなくなると、必ず常套手段として使われたのが、
"本日、楠木正成登場"
という呼び込み看板だった。これをやると、不思議なくらい盛況となったというから楠木正成がいかに江戸の庶民に親しまれていたかがわかる。
「大日本史」を編纂した、黄門様の愛称で有名な水戸光圀が湊川に正成顕彰の碑を建立させたことがその一因かはわからない。
ただ、光圀の正成好きが尊皇の意識から出ていた事から考えると、明治維新の種子がこの頃から蒔かれていたといっても過言ではない。
幕末の始まり頃、京では長州藩士が大手を振ってまかり通っていた。彼らは金払いがいい上に、尊皇の気持ちが強かった。自然、京市民の人気も高くなった。
「長州はんは、楠公はんをやるそうな」
桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されて以来、日に日に幕府の国内における求心力が薄れつつあった。
以降、開国か攘夷かで朝廷が幕府を詰問するようになったので、悪く言えば長州はその尻馬に乗って京や江戸でやりたい放題暴れた。
しかしやり過ぎた。攘夷と称して、洛内で天誅の美名の元に開国論者などを斬りまくった。主に活動していたのは、長州の庇護を受けていた土佐藩士だが後押しをしていた点で同罪といえる。
彼らの大半はその後、京都守護職松平容保の配下となった新撰組によって次々と嬲り殺しに遭う。
更にイギリス、オランダなど四カ国連合軍の艦隊が、萩の城下を徹底的に破壊した。攘夷によって、散々外国船を打ち払った報復であった。
更に八月十八日の政変、蛤御門の変と京で長州藩が追い落とされる事件が続発し、第一次長州征伐が行われるようになると長州藩は事実上死に体となる。
京をなかなか脱出できなかった桂小五郎(後の木戸孝允)が、橋の下で乞食同然に生き長らえたのは彼に惚れていた幾松という芸者の存在も大きかった。
それ以上に長州はかつての正成のように朝廷のために働くと流布されたことが、京市民をして桂を筆頭に長州藩士をかばう行動を取らせたのだろう。
絶体絶命の長州藩を救ったのは、坂本龍馬だった。彼が薩摩藩の西郷吉之助(後の隆盛)を説得したことが、薩長同盟に繋がり倒幕への逆転ホームランとなった。
そういった意味では、龍馬や西郷の存在は大きい。そして何より注目すべきは、尊皇という意味で彼らも楠木正成を崇拝していたということだ。
考えようによっては、水戸光圀がパイオニアのように発掘し頼山陽が「日本外史」で賞揚したことが正成という存在を大きく浮かび上がらせ、志士たちの精神的支柱になったといえる。
※このブログは、来月より第2、第4日曜日に配信します。
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