日本史語らずにいられない!

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正成の信念:後編

「梅松論」に次の意味のようなことが書いてある。

"すべての策が退けられた今となっては、もはや討ち死にを覚悟するしかあるまい。"

新田義貞と共に、兵庫へ向かって足利尊氏を迎え撃てと言われた際の、楠木正成の心情だとされる。

これを読む限りでは、はっきりとした後醍醐天皇批判に捉えることができる。

ただし注意しなければいけないのは、「梅松論」があくまでも足利方の正史であるということだ。

尊氏は一旦九州へ落ち延びる際、後醍醐天皇とは別の皇族をもう一人の天皇として擁立する奇策を立てた。

それが現在の皇室の祖先にあたる、いわゆる北朝である。ゆえに後醍醐方は自然に南朝と区別されていく。

天皇家が二つに分かれるいわゆる南北朝という異常事態がこの後数十年続くが、詳細は割愛する。

いずれにしろ、北朝という朝廷を戴いた尊氏方にしてみれば、自分たちこそが正統な軍勢という意識がある。

京の後醍醐方何するものぞという気概さえある。だからこそ、正成の口を借りて後醍醐帝批判ということもできたわけである。

しかし実際に正成が言ったかとなれば疑問は残る。心中やり切れない思いを抱えながらも、口には出さなかったのが真実ではないか。

それは桜井の駅で、嫡男正行(まさつら)に自分が死んでも皇室のために忠義を尽くせと今生の別れを伝えていることでも明らかだ。

死ぬか生きるか、正成の覚悟はもう決まっていたのだろう。たとえ討ち死にするにしても、足利軍と刺し違えるつもりでいたはずである。

兵庫の湊川で戦が起きた際、案の定新田義貞は役に立たなかった。足利方の陽動作戦に引っ掛かり、正成軍とは逆の方向へ動いてしまった。

寡兵で足利軍と対峙することになった正成軍は孤軍奮闘した。錐が木材に穴を開けるように、尊氏の弟・直義の軍勢へと突入した。

正成は見抜いていた。尊氏はたしかに武将としては秀でていた。しかし政治家としては、直義のほうが兄・尊氏より優れていたことを。

たとえこの先尊氏が生き残っても、直義さえ討ち果たせば足利の世は長く続かないと読んでいた。

直義が急襲されるありさまに、尊氏は正成の意図を読み取ってゾッとしただろう。

ただちに弟を救い出すため、軍勢を投入した。午前中に始まった戦が、決着が着くまで夕方までかかった。

正成は敗れた。戦って戦って戦い尽くして、弟の正季(まさすえ)以下僅かな郎党と共に、刺し違えて自害した。

尊氏もその壮絶な戦いぶりに感じるものがあったのだろう。一度は占拠した洛中に正成の首を晒したものの、すぐに河内の正成の自宅へと送り届けた。

鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)という中国の言葉がある。

かつて諸葛孔明が大恩ある劉備の死後、その息子で蜀漢二代目皇帝劉禅に鞠(まり)のように身体を縮めて全力を尽くして魏を討つと誓った。

楠木正成の信念は、正に孔明の言葉通りのものであった。

※このブログは、第2、第4日曜日に配信予定です。

 


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