蝮の末裔
蝮(まむし)の異名を取っていただけに、斎藤道三の評判というのは悪かった。
何しろ、微罪であっても牛裂き、釜茹での刑に処したというのだから庶民は震え上がっただろう。かつ、この守護代を憎まずにはいられない。
つい、四、五十年くらいまでは美濃の国盗りは、道三一代で成し遂げたものと思われた。
司馬遼太郎の『国取り物語:斎藤道三編』も、一介の油売りから美濃一国の国持ち大名まで出世したというストーリーで書いていた。
ところがその後で、滋賀県で六角承禎の古文書が発見された。
そこには、美濃の斎藤家が道三の父親にあたる人物が油売りから守護土岐家の重臣となり、子の道三の代で主家を追放して国を乗っ取った。
つまり親子二代かけての国盗りだということに言及していた。六角氏は滋賀県が近江と呼ばれていたころの南近江の戦国大名である。
権威が失墜して度々都を脱出した将軍家を匿っていたから、他の大名とは格が違うという自負があったろう。
ましてや佐々木源氏である京極氏の分家にもあたるから、家格も名門だ。
同じ源氏の血筋である土岐氏を追い出して、美濃一国を手に入れた道三を成り上がり者と軽蔑し、同時に容易ならぬ隣国と警戒もしただろう。
軽蔑と警戒。相反する感情が、承禎をしてかくの如き書簡を書かせたのだろう。
もっともこの書簡の時期には、道三は嫡男義龍と戦って既にこの世にない頃である。
父・道三を殺した義龍は、道三が守護土岐頼芸から下げ渡された側室から産まれた。
だから本人は、長ずるに及んで道三を父と思わず追放された土岐頼芸を父親として見ていた。
義龍にしてみれば、土岐氏の血を引いていると宣言することで美濃一国をまとめ上げ、父親殺しという汚名を回避したかっただろう。
事実、義龍一代の時は国衆も一つにまとまった。だが、隣国の南近江から見れば美濃は成り上がり者の末裔が治めている国にしか思えなかっただろう。
更に悪いことに、義龍は癩病(らいびょう)に罹ってしまった。
現在ハンセン病と呼ばれているこの病気は、長い間偏見の目で見られていた。
すなわち前世の悪業から罹患する病と信じられていたので、口に出さずとも罰が当たったくらいに思われただろう。
それでも国を守らないわけにはいかないので、国衆たちは義龍をそして彼が亡くなるとその嫡男龍興を新たな主君として仕えた。
だが、龍興は暗愚だった。
英邁な父とは比べ物にならず、祖父・道三が難攻不落の城として築いた居城稲葉山城を家臣竹中半兵衛重治に、僅か十数名で乗っ取られてしまう。
半兵衛はあくまで主君を諫めるため行ったに過ぎなかった。
美濃を手に入れたかった織田信長の誘いも蹴り、さっさと浪人となり北近江の浅井長政の元で奇食したりした。
いずれにしろ、龍興の暗愚ぶりと国衆の離反により信長が美濃を手中に収めたのはその三年後である。
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